定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その二四 「電化」】

 

 定山渓鉄道が開業してからの一〇年の間で定山渓温泉は大きく変わりました。旅館がそれまでの三軒から六軒に増え、土産物店や料理店も次々に開店して訪れる温泉客の数は増え続けていました。鉄道の当初の目的であった材木と鉱石輸送を超えて、旅客の重要性が増していった時期でもあったのです。特に大正一二年に北海道三景のひとつに選ばれると全国に定山渓温泉の名が知られることとなり、さらに客を呼ぶという状況に。相次いで国鉄より中古客車を購入増備するものの、一日七本の列車では乗客をさばききれずに臨時列車を走らせたりもしました。しかしながら、そもそも機関車や客車の絶対数が足りないなど、すでに輸送力の限界に直面しており、旅客の大量輸送効率化は急務となっていたのです。その当時、首都圏では東武鉄道や目黒鎌田電鉄など電車運行が始まっており、これを例に会社内でも電化が検討されていたのではないかと思われます。

 そんな状況にあった大正一五年、沼ノ端~苗穂間に北海道鉄道が開業します。後の国鉄千歳線(旧)となった路線ですが、白石~豊平間の定山渓鉄道とは平面交差となるために東札幌に停車場が設けられました。そしてその北海道鉄道の開通と、およそ三年後の定山渓鉄道全線電化とは密接な関係がありました。

 

 明治四〇年以降、定山渓発電所完成を皮切りに、札幌水力電気という会社によっていくつかの水力発電所が沿線に設けられ、定山渓温泉や札幌市街地への発送電が行われていました。大正一五年八月にその札幌水力電気が王子製紙と合併。王子製紙は出力一万キロワットという、当時、自家用水力発電としては国内でも二番目に大きい規模を誇った千歳第一発電所を持ち、合併によりその電力供給を受けた結果、その後の札幌の電気需要も一気に高まっていきました。この王子製紙が、実は同じ年に苗穂~沼ノ端間を開通させた北海道鉄道の大株主でした。翌、昭和二年には王子製紙所有の発送電部門をわけて北海水力電気株式会社を設立。電化を計画していた定山渓鉄道は、昭和三年一〇月の臨時株主総会においてこの北海水力電気に資金調達を仰ぐことを決定し、昭和四年一〇月二五日、大型高速電車としては北海道初、と言われた「定鉄電車」の誕生へとつながったのです。

 この間、北海水力電気が担うこととなった豊平川第一

発電所、一の沢発電所や簾舞発電所などの建設に際して定山渓鉄道が物資輸送に貢献していたことから両者の関係はかなり近かったものと思われ、北海水力電気にとっても電化となれば優良顧客になり、お互いに好条件が働いていたとも考えられます。

 さらに北海道鉄道を傘下にする王子製紙としては、定山渓鉄道を手中にすることで沿線の豊富な森林資源を自社保有の交通網で効率よく苫小牧工場へ運び込むことが可能になり、当の定山渓鉄道側からすれば大型電車により所要時間の短縮と旅客輸送量のアップという目的を達成させることができました。

 もっとも、これによって定山渓鉄道は地元資本の小規模経営から本格的に脱却し、鉄道会社としての規模も性格も大きく変わっていくこととなったのです。

 

 電化工事は昭和四年の雪解けを待たず春から昼夜を問わず突貫工事で進められました。それまでは軽便鉄道並みだったレールも一般的な三五キログラムのものに交換され、古いレールは架線柱に生まれ変わりました。停車場の建物も一新し、そして着工からわずか半年足らずの一〇月二五日、暖かい秋晴れのその日、東札幌停車場から艶やかなフェザントグリーン一色の新造モ100型電車四両によって電車営業が華々しくスタートしたのです。またそれに合わせて豊平停車場、定山渓停車場が移転新築され、ことに定山渓停車場は終着駅、温泉の玄関口にふさわしい立派な建物となりました。豊平から定山渓までの所用時間がそれまでの約半分である五〇分程度に縮まって日帰り入浴が可能となり、首都圏以北では見られなかったパンタグラフを付けた大型電車を一目見ようとさらに人気を呼んで、一日一六往復の電車は満員の日が続いたのだそうです。

 その後この電化は、札幌市街地から定山渓温泉への利用客増を図って北海道鉄道の東札幌~苗穂間に延長されて昭和六年七月より電車が乗り入れ開始しています。

 

※カットは左が電化開業当時の豊平停車場の様子。右が電化にあたって新造されたモ100型電車の竣工図。

 

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