定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その四七 「緑ヶ丘停留場」】

 

 どこまでも真っ青な空が広がった大正七年一〇月一七日、のんびりと草をはむ牛が群がる真駒内種畜場の脇を、満員の乗客を乗せた定山渓行一番列車が、やはりのんびりとした速度で走り抜けていきます。後に緑ヶ丘停留場が置かれることとなるその場所は、その時はまだ牧草地と林とにはさまれた放牧地の一部でした。

 エドウィン・ダンによってこの地が選ばれ、真駒内牧牛場として開設された開拓初期の明治九年九月。その一〇年後には北海道庁に移管されて牛のみならず羊や馬など多様な家畜の改良・繁殖事業が行われることとなり、その後の『酪農王国北海道』の礎となった真駒内種畜場となります。その後規模が拡大されるに伴って北海道庁種畜場、農業試験場畜産部などの変遷を続けながら、やがて昭和の暗い戦争時代を迎え、終戦翌年の昭和二一年五月には、GHQ命令によって種畜場のそのほとんどの土地が接収されてしまいます。翌二二年三月までに家畜はもとより主要な施設一切が滝川や恵庭、新得へとの移設を余儀なくされ、直後、それまでの放牧地は跡形もなく占領軍の兵舎や体育館、劇場やゴルフ場などに生まれ変わってしまったのです。その後の約一〇年間は、『キャンプ・クロフォード』と名付けられた軍事拠点として真駒内の歴史にその名を残すこととなりました。

 

 『キャンプ・クロフォード』の撤退が始められた昭和三〇年頃から、真駒内は再び大きくその姿を変え始めます。先に返還された敷地の北側半分がは衛隊駐屯地となり、残り南側は昭和三四年一二月に返還が完了して、北海道営による真駒内団地造成の都市計画が持ち上がります。翌三五年八月には第一期分譲として住宅九六戸、店舗七戸ほか集合住宅約四万平方メートルの土地に宅地造成が始まりますが、その規模は当時、大阪千里ニュータウンに次ぐ日本で二番目の大きさと伝えられました。上下水道完備、水洗トイレ対応を謳い、道内だけではなく全国的にも注目されたのだそうです。

 牧牛場から軍事基地、そして巨大ベッドタウンへと真駒内は三度その姿を変えていくのですが、定山渓へと延びる一筋の線路だけが、開業当時と変わらずその変化を見続けていました。

 

 その定山渓鉄道がほんの一瞬、真駒内の歴史の中で注目を浴びる瞬間が訪れます。策定された「真駒内団地第一期開発地域計画図(『郷土史真駒内』 昭和五二年刊に掲載)」によれば、北側に接する自衛隊地から南端は石山陸橋手前の真駒内川まで、その真駒内川を西の境に定山渓鉄道線を東端とする広大なエリアが真駒内団地の全貌。その中で北から南までの間にほぼ等間隔で置かれた三つの小中学校と、それをとり囲む集合団地と宅地用地。商店街と緑地公園の配置は地域完結型の高効率な住環境であることを示し、さらにクルマと歩行者の共存を図った曲線を有するゆとりあるメインストリートが南北に描かれて

います。そして何より注目すべき点は、団地の東端を走る定山渓鉄道線にこの時にはまだ存在しない駅が記されているのです(現在の真駒内幸町と接する付近)。駅名は書かれていないのですが、この計画図が検討された時点では定山渓鉄道がこの真駒内団地の交通の要として組み込まれていたものと容易に察することができます。

 真駒内停車場はこの時、先に返還され自衛隊駐屯地となる北側に位置していました。真駒内団地造成計画の策定においては一六〇〇メートルほど離れたこの真駒内停車場の移設、または新設の議論がなされていた可能性がありますが、結果として昭和三六年四月に計画図が示していた地点にほぼ合致する形で新たに緑ヶ丘停留場が開設されました(現在の真駒内泉町四丁目交差点と接する付近)。またこの駅は、まさに黄金期を迎え鉄道事業収入もピークに達していた定山渓鉄道における、最後の新駅でもあったのです。

 ところが実際のところ、その交通の要となるべくして実際に置かれた中心駅は、駅舎も待合室も持たない簡易な木造のホームだけという非常に貧弱なものでした。真駒内団地造成は全国的に注目を浴びての一大都市計画であったにもかかわらずに。

実は駅が置かれた当時はまだ戸建が数件建っていたのみで、宅地分譲そのものは当初の計画通りに進んだとは言えない面もあったそうですが、それでもごく近い将来4万人規模を誇る一つの街が生まれようとする時に片面ホーム1本しか用意されなかったことに疑問を感じます。今となっては推測するしかないのですが、この「真駒内団地第一期開発地域計画図」が策定された昭和三四年ごろ、当時はまだ豊平町内であったこの団地も二年後の昭和三六年には長年の議論を経て札幌市との合併が実現するという段階に入り、名実ともに札幌のベッドタウンが誕生するタイミングでした。さらに一方では冬季オリンピックの札幌誘致運動が水面下でスタートし、オリンピック開催を見据えた競技場や選手村の建設計画、それに伴う新しい交通網の策定にとりかかっていたかもしれないタイミング…。折しもこの緑ヶ丘停留場開業後、沿線国道の整備とともにバス・トラック輸送が台頭、次第に鉄道部門の事業収入が減少していくのはさまざまな書籍でも紹介されているとおりなのですが、廃止論議が表面化したのは札幌オリンピックの開催が決定された昭和四一年以降でした。しかし、団地の表玄関となるはずだったのに簡易ホームがひとつ設けられただけで済まされてしまった緑ヶ丘停留場の存在は、やはり、ごく近い将来に鉄道営業廃止を迎えることがこの時すでに既定されていたことを示唆していたのではないかと思わずにはいられません。

 線路譲渡が決まった平岸付近から藤の沢までの区間は、昭和四四年一〇月三一日の定山渓鉄道営業廃止後ただちに線路撤去が行われ、地下鉄工事が急ピッチで進められます。そして、オリンピック開催直前の昭和四六年一二月に開業した札幌市営高速電車南北線の真駒内駅が設けられたのは、奇しくも先の計画図中にあった新駅の位置であり、それは緑ヶ丘停留場のわずかに北側でした。

※カットは上が緑ヶ丘停留場駅構内平面図。駅が置かれる前の昭和三三年一一月に作成されたもの。その下は左から「真駒内団地第一期開発地域計画図」と、右は八.五キロポスト付近を通過する定鉄電車。当時の真駒内団地が左側に見える。その下は団地造成が進んだ昭和四一年七月に撮影された国土地理院所蔵の航空写真。●印が実際に置かれた緑ヶ丘停留場の位置で道路からのアクセス通路が見える。林の中の施設は豊平町と札幌市との合併後に造られた団地水道配水場。左下は真駒内種畜場のころの牧場風景。遠景の硬石山と柏ケ丘の稜線から現在の泉町付近で撮影されたものと推測。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

<緑ヶ丘停留場>

昭和36年4月15日に設置。ホームだけの無人駅。

東札幌停車場起点より8km60mが停留場中心。

ホームは定山渓方右側1面で長さ35mの木造。ホーム幅2m10。

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