〜堀 淳一紀行集〜 Vol,3

渺々茫々、風が気ままに過ぎてゆく     ──メグマ沼

堀 淳一 


国土地理院発行 二万五千分一地形図『声問』(平成6年改測)より抜粋。縮小しています。
 メグマ沼は、宗谷湾から一キロも離れていない。

 にもかかわらず、メグマ沼から出るメグマ川は、まっすぐに海に入らず、えんえん三キロも海岸と平行に北東に流れて、マスホロ(増幌)川下流に入る。そしてマスホロ川はそこからさらに二キロあまり、やはり海岸と平行に流れてから、ようやく海にそそいでいる。
 なぜこんなことになるのだろう?
 それは、海岸沿いに低く起伏する幅五〇〇メートルほどの砂丘が、水はけを妨げているせいだ。
 沼自身の存在も、やはりこの水はけの悪さに起因しているのだろう。
 沼の西側にあるメグマ湿原の成因も、これと同じであるにちがいない。いや、この湿原も昔は沼だったのではなかろうか?つまり昔は沼が今の2倍以上の大きさをもっていたのではないか?

 メグマ沼へは、簡単に行ける。道道一二一号、ワッカナイ・ホロノベ(幌延)線の「空港入口」バス停からワッカナイゴルフ場へ向かう道路を歩き、約二キロ行ったところで湿原を横切ってゆく木道に入ると、一キロぐらいで岸に出るのだ(普通ならあまりに簡単すぎて物足りないのだが、この湿原木道の一キロがあるのがいい)。

 木道入口に立っている説明板には、

ミズゴケを地床層とする高位・中間湿原。
ヌマガヤ、イソツツジ、ゼンテイカ、ワ
タスゲ、タケギボウシ、ノハナショウブ、
ミズバショウ、エゾノリュウキンカ、ミ
ツガシワ、ホロムイイチゴ、ツマトリソ
ウ、ショウジョウバカマ、ツルコケモモ、
ガンコウランが生えている。
 とあった。しかし、七月のはじめだったのに、花の盛りにはまだ早かったのか、それとももう盛りは過ぎたのか、目立った花はほんのチラホラとしかなかった。私は植物については不案内なので自信のないのもあるけれども、ツルコケモモ、ノハナショウブ、ワタスゲ、キスゲ、ミツガシワ、イソツツジ。あとは葉だけで私には同定困難な草ばかりの、ややくすんだアップルグリーンの野が、茫々と広がっているのだった。
 シルバーホワイトの雲が、淡く高く、かすかに侘しさを漂わせて、果てしなく空を覆っていた。風はひよひよとなよやかに野を吹きぬけてゆく。風吹き通る空と野、それに少しの花。私にはそれで十分だ。

 うねうねと曲がって続く木道をソボソボと歩いているうちに、まわりはまばらな木立になってくる。そしてそれが、次第に密になりだしたと思うと、まもなく岸だった。
 沼はパールホワイトの水をいちめんに波立たせて、ざわざわと鳴っていた。水の視界は一二〇度ほど。渺々と広い。
 対岸の丘裾は象牙色の牧草地をあちこちに載せて低く這う、納戸鼠の森。その上からのったりと波打つスモークブルーの宗谷丘陵頂部がのぞいている。丘裾と沼の向こう岸の間は、ややくすんだ鸚緑の草原。
 岸にも丘にも水の上にも人工物はまったくなく、ひたすら茫漠の風景だ。波の音と風のささやきに身をゆだねて、こちらも漠として立ちつくす。
 悠々の気分にたっぷりとひたらせてくれる沼だった。

 帰り、北から西に大回りする、さっきとは別の木道をたどる(大回りしたあとははじめの木道に戻るのだが、湿原をゆっくり味わうにはこちらがいい)。
 ここではワタスゲが多かった。といっても、風にいっせいになびき伏しながらひくひくと大きく揺れて風の速さとつめたさをまざまざと見せ、身震いをいっそうつのらせる氷島(アイスランド)の大ぶりのワタスゲの密集大群のような迫力は求めるべくもなく、小さな白点がおだやかに緑の中にちらばっているだけの、ささやかにまばらな群落だが、これはこれで、またいい。

 北まわりの木道からは、ワッカナイ空港のビルが、まっすぐ前に見える。ビルは二階建てだが、ここから眺めるとべったりと地上に貼りついているだけの低い建物群に過ぎない。目の前にひょろりと高く延び立つ一本のキスゲとそれとの対照が、ちょっぴりシュールな絵をつくっていた。 左手の空から、”ブォー”という音が聞こえてきた。と思ったら眼の前遠くの空を飛行機が左から下降しながら横切っていった。あ、上空では東寄りの風なのだな、と思って機影を追っていると、それは空港ビルのうしろに消えた。とすぐビルの右横に現れた。
 どこまで行くんだろう?と追い続けたら、今立っているところのちょうど真北あたりで、ぴたりと止まった。あたかも湿原に舞い降りたかのように。

 そう、メグマ沼は、空港からすぐ、という珍らしい沼なのである。ワッカナイ空港が砂丘上につくられたためだ。冒頭に書いたように私は「空港入口」というバス停から歩いてきたのだが、バス停の名の示すように、この道は空港の前を通る。空港までが一キロ。空港から木道入口までが一キロ。滑走路東端と沼の北岸との間は五〇〇メートルしかないのだ。
 もっとも、空港と湖沼との間が日本一接近しているというわけではない。滑走路端と湖沼との距離がゼロに近い空港は三つ(南大東、出雲、米子各空港)、五百メートル以下の空港も三つ(佐渡、オホーツク紋別、千歳各空港)ある。
 しかし、これらの空港に近接している湖沼は、湿原を伴ってはいない。ワッカナイ空港は、飛行機を降りたすぐその足で気軽に湿原にも沼にも行けるという、ユニークな存在なのだ。ただ、それを知り、それを活用する人は、五〇〇人に一人いるかいないかだろうけれど。

参加者  富田、堀 (いずれもコンターサークルs)

2004/11/24掲載
文 写真   堀 淳一 <コンターサークルs主宰