〜堀 淳一紀行集〜 Vol,7

タプコプタンコブ・タンコブタプコプ 2

堀 淳一 


 旧コンターサークル(現コンターサークルsの旧態)の機関誌「等高線」の最終号(二六号、二〇〇三年)に、同じ表題の記事を書いたので、ここでは表題に 2 をつけた。

 しかし、このHPをご覧になる方の多くは、「等高線」所載の記事を読んでおられず、従っていきなりその続編に接しても戸迷われるだろう。そこで、前記の記事の冒頭部分をイントロとして再録しておく(一部改変)。

 真尾さんと談合して、北海道と北東北のタプコプ・コレクションをやろう、という企画を立てた。ちょっと大変、大事業だが、まあ、一〇年計画ぐらいで。私はあと一〇年も歩けるかどうかわからないけれど、真尾さんは大丈夫だろう。
 タプコプ(Tapkop)はアイヌ語の「たんこぶ山」で、ヒョコンと目立った孤立峰、または本当は孤立していないのだが、見る方角によってはあたかも孤立しているように見えるピーク──たとえば尾根の先端とか、両隣に似たような山はあっても、その中で比較的高く、形もととのっていて目立つピークとか──を言う。
 とはいっても、今でもそのままタプコプ(アイヌ語により忠実にはタ
と表記すべきだが、ここではタプコプと書く)を名乗り続けている山は、めったにない。支笏カルデラの外輪山に載っている「多峰古峰」が、おそらく唯一の例だろう。あとのタプコプはタップ山、コップ山などという省略形になっていたり、漢字で達子森、龍子山などと書かれていたりするか、それとも山名でなくて達布、田子などの地名として使われていたり、山名としても地名としても使われなくなってしまっている。後者の場合には、もともとのタプコプはどの山のことだったのかが必然的に不分明になる。それでも地形図上の山形からどれがタプコプだったかが見当のつく場合はあるのだが、そうでない場合のほうが圧倒的に多い。
 最後の場合には、結局現地に行ってこの眼で探るほかはないが、地図上でわかる場合にも、我々のサガとして、やはり現地に行って実物を見なければ気がおさまらない。
 という次第で、真尾さんと二人で、あるいはそれぞれ一人ずつで、あちこちのタプコプを見に行くことにした。
 で、このプロジェクトに沿って、今までに十数ヶ所のタプコプを見に行った。前記の記事はそのうち二〇〇三年中に私一人で行ったタプコプのことを書いたのだが、ここではその後(二〇〇四年中)に私一人、または真尾さん以外の人といっしょに行ったタプコプについて報告する。

 1 岩手県葛巻町のタプコプ

 葛巻町の町役場のすぐ西に、馬渕(まべち)川の蛇行部にぐるりと囲まれた孤立丘がある。地形から見て、かつて繞谷(じょうこく)丘陵だった時代があるのではないか、と疑われるきれいな形の孤立丘。これがアイヌ時代にタプコプと呼ばれていた、と推定される丘なのだ。海抜標高四八八メートル、比高は約九〇メートル。
 それを見よう、と、4月のはじめのある日、町役場の北で、バスを降りた。
 役場に入ってゆく道路を歩きはじめたとたん、もう丘が右手に迫ってきた。うん、いい形のタプコプだ。土マンジュウ形にまあるく盛り上がっている!
 が、ここからでは右(北東)方に張り出す尾根が大きく見えすぎて、形を崩しているなぁ──
 町役場の前の東西道路に出て、それを東へ一〇〇メートルほど行ってみる。と、丘は左右対称に近い姿となり、地図から思い描いていたとおりの、典型的なタプコプになった。
 丘はまだ冬枯れのままの裸木に覆われているが、頂部右寄りには針葉樹がむらがり立ち、その中にようやく葉を出したばかりの落葉木が二本だけ混ざっていた。裸木の林のオーキッドグレイ、針葉樹の黒緑というどちらかといえば暗色の取合せに、落葉木のみずみずしいシャルトルーズグリーンが、絶妙なアクセントをつけており、それをさらに役場の構内に植わっているサクラの花のめざましく明るい白とベビーピンクが引き立てている。
 とはいえ、電線が邪魔だ。もうちょっと歩いて、馬渕川の堤防の上に登ってみよう─

 それは正解だった。

国土地理院発行 二万五千分一地形図『葛巻』(平成二年修正測量)より抜粋。縮小しています。
葛巻のタプコプ。馬渕川の堤防上より。
 ほとんど正確に左右対称な、見事なタプコプが、銀白一色の高曇りの空の下に、どわん、と盛り上がっていた。前景は左から、馬渕川南岸の州を覆う明るい砥の粉色の枯アシ原、ぐいーっとカーブするパウダーブルーの馬渕川の流れ、堤防南側のアップルグリーンの草のベルト、同北側のサクラ並木と一本だけその中に混じる広葉樹の丸くふくらんだシャルトルーズグリーン。はろばろと胸のすく風景が、そこで私を待っていたのだ。
 堤防の上から学校東縁の道まで歩いてゆくと、またちがったタプコプの眺めが、次々と現れて、私を娯しませた。南岸のアシ原の中にモコモコと現れた新緑のヤナギの群れが、さわやかさをひときわ湧き立たせた、空と丘と河原と堤防とサクラの風景。広々とした学校のグラウンドのかなたに一回り小さく可愛らしく立つタプコプ。グラウンド東端のサクラ並木の、ほのやかにピンクを帯びた白い花のひろがりを、頭上にさしかけられたタプコプ。

 2 三笠市いちきしりの達布山

 五月はじめ。ふたたび高曇り。空は銀白一色だった。
 三笠市大里、三笠苗畑の八〇〇メートル西でタクシーを降りる。そこからいちきしり・達布入り口のバス停まで、北北西〜北西方に達布山を望みながら歩こう、というのだった。
 達布山は、その名がズバリ示すように、かつてのタプコプに比定される山である。
 が、実際に見るその姿は、この考えをいささか疑わせるものだった。海抜一四三.八メートル、比高はわずか一一〇メートルほどの低い山としては、たしかに富士山に似たきれいな形をしていて、ちょっと目立つ。しかし、平たい鈍角三角形の形は「ボコンと盛り上がった」という感じからは遠い。
 ただしこの山の場合には、有力な裏づけがある。明治二八年発行の二〇万分一実測切図で、「タプコプ山」という注記がちょうどこの山のあたりにつけられていることだ(標高が一一一メートルになっていて、現在の地形図上の標高とかなり違うけれども、当時の測量の粗さを考えれば、このくいちがいは気にしなくてもよいだろう)。

 ということで、やはり達布山がタプコプである、と考えてよさそうだ。

国土地理院発行 二万五千分一地形図『岩見沢』(昭和六三年修正測量)より抜粋。縮小しています。
右 達布山。左 その西の110mピーク。

3 コップ山

 深川付近の国道一二号または函館本線の車窓からよく見えるコップ山は、御存じの方も多いだろう。
 その名のコップがタプコプの下半に由来することはたしかだし、巨大なマンジュウよろしくぐわんと盛り上がっているその姿は、まさにタプコプだから、この山がかつてタプコプと呼ばれていたことは、まず疑えない。
 またこの山も、二十万分一実測切図にニウシュタプコプと注記されている。これも強力な裏づけだ。

国土地理院発行 二万五千分一地形図『多度志』(平成八年修正測量)より抜粋。縮小しています。  ニウシュは「木が群生する(ni-ush)」の意だから、山名だけを考えると「木がたくさん生えているタプコプ」となるが、コップ山の東麓から南〜南西流して石狩川に入るニウシベツ(入志別)川の水源の山を意味する、という考えもあって(山田秀三「北海道の地名」、北海道新聞社、一九八四年)、もしそうだとするとニウシュの由来は川のほうにあることになる。アイヌの人々の地名のつけ方では川が優先されるから、この解釈のほうが多分妥当だろう。もっともだからといって、山に木がたくさんあることとは矛盾はしないが(昔はいざ知らず、今は木の多い山である)。
 もう一つの裏づけは、コップ山の西麓にある集落の名が「達府」だ、ということ。つまり、タプコプのタプが地名に、コプが山名になったのだ、と考えられること、である。
 ところで、このコップ山は、真尾さんがすでに単独で観察しているので、私が改めて行く必要はないといえばないのだが、真尾さんが見たのは南側からだけで、もっとタプコプらしく見えるはずの西側からではなかった。そこで七月中旬、別の目的で宮川さんとこの付近に行ったさい、ついでに達府までクルマを飛ばしてもらった。
 期待通り、達府集落の東端、コップ山の真西から見たコップ山は、深川からの頂上の平らな姿ではなく、見事に丸く盛り上がった、典型的なタプコプだった。
達布から見たコップ山。

4 龍子山

 コップ山を見に行った日も、またまた高曇りだった。そして、十一月のはじめに茨城県のタプコプを見に行った日も、またもや高曇り。私が真尾さんと別にタプコプ探訪をする日が決まって高曇なのは、いったいぜんたい、なぜなのだろう?これって、真尾さんの遠隔魔術なんだろうか?

 茨城県のタプコプというのは、高萩市の北境近くにある龍子山のことだ。
 龍子山の南麓には、松岡中学校、松岡小学校、幼稚園が並んでいる。地名は殿町。
 この地名が示唆するように、ここにはかつて、松岡藩の城があった。そして今も、その遺構が中学校の西に残っており、整備されて公園になっている。
 公園の散策は、さまざまの秋の彩が眼をたのしませる、快いものだった。
 木々の倒影をごくごくかすかに震わせている銀白の濠の水、濠沿いのサクラ並木の鮮やかなゼラニウムの紅葉、並木の足元にモコモコと連なって植えられている低い潅木のめざましいシトロンイエロー。半ば湿原化した山裾沿いの濠を埋める水草のマラカイトグリーン、濠の脇の土塁のつややかな萌黄。反対側に点在するサクラの燃える朱。学校の敷地との境を画する長い築地塀の清澄な白にキリリとひきしめられながらそれを飾る、木々の紅葉の鮮烈な緋、オレンジバーミリオン、蘇枋色、シャルトルーズグリーン、柑子色─
 龍子山はこれらの彩りや学校・幼稚園の建物群を背後から抱くように横たわっているのだが、あまりにものっぺりと低くて、一向にタプコプ的でない。のっぺりしていても最高点がハッキリしていて左右対称のいい形をしているのなら、前記の2のような例もあるのでタプコプだといってもいいのだが、稜線がひどく不規則で凸凹していて、最高点(標高五七メートル)がどこなのかすらさだかではない。
 どこかにこれがタプコプらしく見える地点がないものだろうか?と、小学校の西方から中学校の東方まで歩いて探したが、ムダだった。
 龍子山の東にボコンと盛り上がっている小丘。こっちのほうがよほどタプコプだ。ひょっとしたらこいつが元祖タプコプで、それがいつのまにか龍子山に名前を奪われてしまったのでは?
 龍子山の上には中世期に、大塚氏の築いた城があった(地図で山頂に描かれている城址の記号は、これを指している)。それを近世初期(一六〇六年)に拡張して麓に平城を構え、松岡城と名づけたのが戸沢氏。しかし一六二二年には戸沢氏は出羽に国替えとなり、松岡領は水戸藩領になった。そして一六四六年、水戸藩家老の中山氏に知行地として与えられる。
 中山氏は一八六八年に藩主として松岡藩を立てるが、その時はもう維新がせまっており、一八七一年の廃藩置県を迎え、同じ年、できたばかりの松岡県は茨城県に吸収されてしまった。

 ここまで書いてきて、ハッと思い当たった。
 龍子山の山上に城があったのならば、当然、石垣や濠の築造、建物の土台の削平などの、人工的な地形の改変があったはずだ。稜線が凸凹なのはそのせいなのではないか?
 とすれば、城ができる前には、稜線はもっとなめらかで、頂部ももっと明瞭に盛り上がっていたはず──つまり山全体は今よりはるかに整った形をしていたはずだ。
 その原型ならば、タプコプと呼ばれるのにふさわしかったのでは?

 うん、そうだ、そうにちがいない、と一人合点して、龍子山をあとにした。

国土地理院発行 二万五千分一地形図『高萩』(平成一二年修正測量)より抜粋。縮小しています。
松岡中学校の敷地から見た龍子山。
龍子山の東のタンコブ丘。こっちが元祖タプコプ?
2005/6/3掲載
文 写真   堀 淳一 <コンターサークルs主宰