〜堀 淳一紀行集〜 Vol,9

Unknown Lakes in a Well-known Prefectural Park
          ──蓴菜小沼と円沼

堀 淳一 



 超有名な大沼公園の中の超有名な大沼・小沼は、知らない人はまずいないだろう。
 またこれらの西にある蓴菜沼も、大沼・小沼ほどではないにしても、国道五号が岸を走っていてよく見えるか、あるいはよくは見えないとしても木の間を通してチラホラとは見えるはずだから(筆者自身はここをクルマで通った経験がないので、断定はしかねるけれど)、知っている人も多いだろう。
 これに対して、蓴菜沼のすぐ北にある蓴菜小沼(地図上では無名だが、私が勝手に命名した)は、ほとんど人に知られていないと思われる。
 そんな「知られざる沼」の表情を見たくて、五月半ばの高曇りの日、蓴菜小沼の北岸をかすめて走る道路へ、国道五号から入っていった。
蓴菜小沼
国土地理院発行 二万五千分一地形図『駒ケ岳』(平成七年修正測量)、『大沼公園』(平成八年修正測量)より抜粋。縮小しています。
 沼はすぐに見えてきた。道路は舗装されており、頑丈なガードレールを備えていたが、それをムリヤリまたいで、危なっかしい築堤南側のガケを降りた。
 岸辺はいたるところに水のある湿原。ズブッとはまりこまないよう、足元に注意しながら歩いて、水ぎわ近くまで行く。
 白い空を映すシルバースカイの水が、風にさわさわと波立って、茫々と広がっていた。対岸左方はシャルトルーズグリーンに萌える早春の雑木林に覆われた、東岸の低い丘。正面から右手にかけては、ぐんと低く這う同じような新緑の丘。その上には、蓴菜沼の南に饅頭型に盛り上がる三八二メートルのピークとそれに続くほヾ同じ高さの山なみが、浅葱色に起伏して対岸の丘の単調さを救っている。
蓴菜小沼から出てきたばかりの宿野辺川
 水はシルバースカイ。対岸は冬枯れの仔鹿色の中に新緑の鶸色を点綴させる森。そして森の上から、駒ヶ岳の尖峰が青藤色にヒュン、と屹立していた。うーん、いい沼だ!
 さらに東へ歩くにつれて沼はすぐ眼の前に近づいて来、足もとからはるかの森まで、水草をまばらに浮かべた水面が、大きくひろがった。
 さざなみすらないひたすら静かな水が、ほんのかすかに揺れて、向こうの森の倒影を茫とぼかし、浮き草の明るい若芽色が、倒影の中ではいくつかの群れに分かれ、高曇りの空を映すシルバースカイの水の上では、離ればなれに散らばっている。
 さらに進む途中、たまたま微風が湖面を渡ってきたらしく、さざなみ立って銀白に光る一筋の水面が、森の倒影を二つに引き裂いた。うん、いいな、と歩をゆるめたちょうどその時、、草原と立木がふたたび沼との間に現れてきて、心にくい前景をそれに添えた。そして、いったん森のうしろにかくれていた駒ケ岳の尖峰が、ほんの先端だけを森の上にのぞかせた。なぜか、なんともユーモラスな感じ。思わず足を止めて、微笑とともに見入ってしまった。
 道の反対側もいつのまにか広い草原になっていたが、、その奥の森のきわに二階家が一軒、静まり返って立っていた。人の気配はない。横にとまっているクルマも、廃車とは見えなかったが、久しく動いていないようだった。一番近くの家からも二五〇メートルは離れて森の中にポツンとある、隔絶した無人の一軒家。いったいどんな人が住んでいる(いた)のだろう?
 沼のほとりには一艘のボートが伏せられたままになっていた。春の盛りにはボート遊びをする人々がやってくるのだろうか?その時になるとボートを管理する人があの家にもどってくるのだろうか?
 だが今は、円沼は自然のただ中の、なかなかに味わい深いB級湖沼なのだった。
 そして、手前の岸にすいすいと立つ梔子色の枯れアシと、高く空まで伸びるみずみずしい若緑のヤナギが、沼と丘の眺めを絶妙に引き立てていた。
 まわりには誰もいない。ほんの時折うしろの道路をクルマが走るが、それはほとんど気にならない。空気はどちらかといえば冷たいとはいえ、春を予感させるふわりとした感触で身を包み、それをふよふよとゆする微風が、耳朶をやさしく撫でてゆく。

 だが、視覚だけに話を限るならば、沼そのもの──ただただ白い水がどこまでもさざなみ立っている沼そのものは、向こうの丘やこちら岸の枯れアシや緑のヤナギにほどよく縁取られているとはいえ、平板の感を免れない。屈斜路湖、クッチャロ湖、サロマ湖などのような、はろばろ感・茫漠感はたっぷりあるけれども、目をそば立たせる火山・山岳には恵まれない湖たちのように。

 それを補って、うん、これぞB級湖沼だ、という情感を沸き立たせてくれたのは、踵を返して道路にもどろう、としたときに目に入ってきた、岸の湿原の風景だった。
 より多くの草木が前景に入ってきて沼にさらに深いおもむきを添えたのもいうまでもないが、それよりもずっと印象的だったのは、宿野辺川の流出口付近の眺め。
 沼から出てきたばかりの幅四メートルの川が、くねくねとこまかく蛇行している。水は浅く、たゆたう渦をはげしくからみ合わせながらも流速はごくゆるやかで、音もなく、渦のないところでは見たところまったく流れていないようだった。しかも両岸にも木々が生え立っていて見通しがきかず、水面にはジュンサイが密に浮かんでいて、川というよりも湿原の中に飛びはなれてある小さな沼のようだ。
 水の色も、空を映すところでは白だが、草木を映すところでは微妙繊細に融けあったオリーブ茶、柳茶、錆青磁。蓴菜小沼のそれよりもはるかに深い情感が、そこにあった。
円沼と駒ケ岳
 道路に戻り、森と荒地を横切って、さっきそこから歩きはじめたT字路の、約一〇〇メートル北の国道に出る。
 国道を北上すると、赤井川の郵便局のところから、円沼に通じる路が東へ分かれている。
 はじめは舗装道路だが、ゴルフ場へ行く道を見送ると、心地よい土の轍道になった。
 終始雑木林の中をぬってアップダウンを繰り返してゆく爽快感に、足が弾む。シャルトルーズグリーンの新緑と、冬枯れの木々の鳶色や朽葉色とのめざましい対比が、春の息吹きを送ってくる。微笑むように、颯々と。くすんだココナットブラウンの路面と三本並ぶ草のベルトのコバルトグリーンの取り合わせもいい。
 左手の樹間からチラホラ見えていたゴルフ場がうしろに去ると、やがて左側に、梔子色の枯れ草とアップルグリーンに萌える草とが混淆する草原が開け、まばらな立ち木と岸のアシ原の向こうに、円沼が現れた。
円沼 駒ケ岳の先鋒がチョコンと覗いている
2005/10/3掲載
文 写真   堀 淳一 <コンターサークルs主宰