〜堀 淳一紀行集〜 Vol,10
山の神? 神の山? 八反?
炭鉱廃墟・炭鉱専用線跡、そして大津港駅へ
相澤夫妻、田中さん、大出さん、石田加奈子さん。私を加えて六人。本州歩きでは久しぶりの大挙出動。二台のタクシーに分乗して、「山の神」のA地点へ。
「ここ、昔「神の山炭砿」っていう炭砿があったとこなんですよ」
「えっ、神の山? 地図には山の神って書いてありますよ」
「ええ、そうなんです」
「なんでひっくり返ってるんですか?」
「それがわからないんです。戦後地図の表記を左横書に変えた時うっかりここだけひっくり返し忘れたんじゃないかと・・・」
「ああ、そうか」
「いやいや、と思ったんですけど、そうでもなさそうなんですよ」
「なんだ、ちがうんですか? じゃあなんで?」
国土地理院発行 二万五千分一地形図『川部』(平成一二年修正測量)、『勿来』(平成九年修正測量)より抜粋。縮小しています。
さて、その炭砿は、大正六年にはじまったのだが、たびたび経営体が変わった末、神之山炭砿という名になったのは昭和一八年だった。一時期は中郷炭砿と並んで常磐の最有力坑だった。しかし昭和四六年に閉山。原因は枯渇、という。
昭和四六年の地図から分かるように、Aより上流の谷あいには、炭砿住宅がギッシリ並んでいたのだ。
その痕跡が残っているのではないか、と、Aから西へなおのびている路を進む。
それは、林をぬってゆく、轍のある落葉路。林の紅葉はちょうど見頃だが、なんとなく薄暗い。そう、山の神が我々をねらって音もなくしのび寄ってきていそうな。
だが誰も、おびえの「お」の字すらなく、たのしげに歩いている。大丈夫かなあ──
大丈夫だった(当たり前だ)。
常磐自動車道にぶつかる手前の路の右側に、小さな沼がある。地図上では自然の沼か人工の沼か、分からない。
「この沼、溜池でしょうか? 自然の沼でしょうか?」
と加奈子さんが聞く。
「いやー、分からないけど、ボクは溜池と思うけど。まあ行ってみましょう」
程なく常磐自動車道の高架が空に浮かび、右手の木の間から水面がのぞいた。ヤブを分けて、ガサガサと林の中に入ってゆく。と、ちょうど溜池の締切堤防の上に出た。
「やっぱり溜池でしたねぇ」
加奈子さんは微笑してうなずきながら、水をじーっと見ている。
蘇枋色、オレンジ、黄の紅葉が、さざなみ一つなく静まってよどんでいる鶸茶の水面に映えて、目をみはる美しさとはとうてい言えないけれども、、一種にぶくしぶい味わいを漂わせる沼だった。
「これ、B級湖沼?」
と彼女を見ると、
「え」
と一言。B級湖沼、という黙契、なんだろう。
五階建ての長いマンション、ただし窓がなくて全体が黒くきたなく汚れ放題になってしまったバカでかいマンションのようなホッパーだった。こりゃスゴい!
近づくとそれは、またいっそう輪をかけて高く、輪をかけて黒く空に屹立して、圧倒的な魁偉さで見るものに迫った。下半分にずらりと並ぶ二四本もの太いコンクリート柱も、迫力満点だ。
裏側(南側・丘側)にまわると、なんと長さは半分ほど、高さも一段低いながら、やはり黒々と魁偉なもう一つのホッパーが、さきのホッパーの東寄りに、ピッタリ並んでいた。
二本のホッパーの間にもそれぞれの床にも、木材やらど太いゴムチューブやら波トタンなどの大型ガラクタ類が、足の踏み場もなく散乱していて、凄惨な感じだったが、それらをよけたりまたいだりしながら、二つのホッパーを行ったり来たりして進んでゆく。と、南側のホッパーの南側に高さと長さがさらに短いホッパーが、もう一つ並んでいることが分かった。南から北へ、出炭量の増大に対応して、次々により大きなホッパーが建設されていったのだろう。
真中のホッパーの中から一番古いホッパーの壁を眺めると、新しい二つのホッパーよりいよいよ黒く薄汚ない壁と、ホッパーの間に繁茂する木々の葉の、逆光にきらめき輝く黄緑、嫩葉色、若緑との強烈なコントラストから、不用になりながらいつまでも残骸をさらし続けることを運命づけられている頑丈なコンクリート構造物の哀れさが、ひときわひしひしと伝わってくるのであった。
ホッパー群を通り抜けて振り返ると、三棟の東端の位置がほぼ南北一線上に連なっているために、三兄弟が見事に背揃いして(古い方が背が低いが)並ぶ風景が、乱れ伏す枯草の山と乱舞するススキの穂の大群とを前景に、深い情感で眺められた。
もとの路にもどって、それを逆戻りしてゆく。そう、目的はB級湖沼ではなかった。炭砿住宅の廃墟を探すことだった。
それは、あった。路から建物郡が立っていた西側山裾の台状地に登る短い石段。森のあちこちに散乱して草や枯葉に埋もれかけている、住宅の基礎や、正体不明のコンクリート構造物。そして、何よりも一同を長く引き止めた、風呂屋の遺跡。
角の丸まった四角形の、白いタイルが貼られたコンクリートの枠は紛うかたなく浴槽の囲いだ。ちょっと離れてその近くにある畳半畳ぐらいのコンクリートの枠は、トイレの跡に違いない。
しかし今は、どの囲いの中も、外の林床のそれより格段に分厚い落ち葉の層に覆われている。中でも浴槽の中には、まだ緑の葉をつけた細い木々が、びっしりと競い立っていて、まるで若木たちが争って入浴しているかのように見え、ユーモラスだ。浴槽は深いので、落ち葉や土や塵が厚くつもって、格好な沃土を若い木々に提供しているのだろう。
炭砿住宅跡は、終始そんな状態で、人爲と自然の勢力交代の無言のドラマを、A地点にもどるまで見せ続けたのだった。
Aより下流の広い谷はかつては水田だったのだが、今は全面ぼうぼうの枯れススキの原。その西の縁を南下する小径に入ってみたら、草の生えた高い土塁の下をくぐる、小さく狭いトンネルにぶつかった。しかし「火気・立入厳禁、茨火協」と書かれた板のある鉄扉でふさがれていて、入れなかった。「茨火協」は、「茨城県花火協会」であろうか?土塁の中は、どうやらその火薬庫であるらしい。
戻って途中から分かれていたもう一本の小径を辿っていってみたが、同じ土塁の別のトンネルの前に出ただけだった。「立入禁止」を侵して立ち入ってしまうことの大好きな面々も、中が火薬とあっては、さすがにおそろしく、スゴスゴと引返す。ひょっとしたら坑口が、という期待は、もろくもつぶれた。
さっきの路を引き続き歩いてゆき、タクシーで先刻、大丈夫かなぁ、と言いながらおそるおそるくぐってきたトンネル(クルマの両側が壁でこすられそうに断面の小さいトンネルだったのだ)の前に出たら、そこからトンネルをくぐらずに丘の上に登ってゆく小径が分かれていた。丘の上からその北方にあるホッパーの廃墟(それは炭砿専用線の終点でもある)が見下ろせるかもしれないと考えて、それをゆく。
しかし、小径はたしかに丘の上に導いたけれども、そこは廃棄物処理場へ行く砂利道をトラックが砂埃をあげて走っているところで、その上道の両側には背の高い草が生い茂っていて、見通しが全くきかないのだった。
仕方なくそのトラックの走る道を西進して、トンネルの北口の前に出、はじめの路を北へ進む。
と、ホッパーが見えてきた。
国土地理院発行 二万五千分一地形図『川部』(昭和四六年測量)より抜粋。
「それが分からない──昭和二六年応急修正の地図、これはまだ右横書のままなんですけど、これには”山の神”っていう注記はなくて、炭鉱ができる前からあった”八反”という地名が書かれてるだけだし、昭和四八年の五万分一にも炭砿のあったところは大字八反になってる。”山の神”という注記は昭和四六年の二万五千分1の地図ではじめて出てくるんですよ」
「うーん、じゃ結局わからないですねぇ」
というわけで、なぜ神の山ではなくて山の神なのかはナゾなのだが、とにかくここは山の神、炭砿は神の山、なのであった。
国土地理院発行 五万分一地形図『川部』(昭和四八年編集)(右)、および同『小名浜』(昭和二六年応急修正・昭和四三年資料修正)(左)。両者間のギャップは経度一〇秒四の差によるもの。
さて、専用線の跡は、当然ながらホッパーの下から這い出してきて、そのまましばらく東南東にのびている。枯草とススキの荒れ原の先は竹林で、線路跡はそれを割って通っていた。
竹林のちょっと手前に一本だけスイーッと立っている竹を、加奈子さんが懸命にゆさぶっている。
「何してんの?」
「いや、欲しいんです」
「何が?」
「竹が」
相澤さんがケゲンそうに聞いている・
「北海道には竹がないんですよ」
「ああ、それで欲しいワケですか」
と、相澤さんは彼女にカメラを向けて、パチリ。
しかし、いくらゆすっても、竹はそう簡単に折れはしない。あきらめた彼女に、ちょうど落ちていた竹の棒をさし出して、
「加奈子さん、ここにいい竹があるよ」
と言ったが、長さが二メートル近くはある。
「いやー、それじゃ長すぎてー、明日飛行機に乗らなきゃならないしー」
竹林はすぐに雑木林に変わり、線路跡は心地よい落ち葉路となって、小さな川を渡った。橋の上いちめん密に散り敷く落ち葉の金茶と、川岸から橋の上にさしかかる木々の黒い幹と、それに混じるポピーレッドの紅葉との取合せが、懐かしく、いい。
橋を渡ると林は切れて、路は幅八メートルほどの広々とした草のベルトに変わったが、やがて左へカーブするとともに、中央に藁色の枯草が続く、日ざし溢れる轍道となった。空がはるばると広く青い。両側の背の高い枯れ叢の間をゆっくりと曲がってゆく道のおもむきが、これぞ廃線跡、だ。
進むにつれて刻々に移ってゆく右手の丘なみ、遠く近くに望む家々、傍らの叢の貌、立ち木のさまざまな様態、田畑の彩が、皆を飽きさせない。
複雑にからみ合って空に繊細な綾を浮き出させている二本のカキの大木に、加奈子さんがつと歩み寄って、、盛大にオレンジの粒々を光らせているその実を、一心に見上げている。落として食べたい様子。が、まあ、渋柿だろうなあ(カキの木も北海道にはない)。
竹ノ内を過ぎると轍はなくなり、草敷きの路面になってきた。やわらかな踏み心地を愉しんでいるうちに、いつか里根川の橋のたもとに出た。
橋は立派に残っていた。桁と枕木がちゃんとあった。うん、こりゃチョロい、と思ったが──
相澤さんは枕木を踏んでサッサッと渡った。大出さんも、田中さんも、そしていうまでもなく、剛胆をもって鳴る加奈子さんも。よし、次はオレだ と渡りかけたのだが──
よく見ると、枕木はもうずいぶん風化していて、上面がデコボコにささくれ、缺けたりしている。つまり足元が極めて不安定で、心もとない。途中でふらついてバランスを崩したりしたら、川に──
で、しゃがんで枕木に手をついて身体を支えながら、枕木の間の桁から桁へ渡ってゆこう、としたのだが、そこでまた気がついたのは、枕木と枕木の間がイヤに狭く、その間の桁にタテに足がのらないことだった。
仕方なく、かにの横這いで行く。横を向いて枕木に両手をつき、左足を次の枕木間桁の左に寄せて入れ、次に右足をそれにピタリと並べて(それでもかなり窮屈だ!)入れる。そして手を次の枕木に移し、左足を・・・
いやー、まどろっこしいねー。もっとまどろっこしーよ、文章にそれを書くのは。
途中でくたびれて一息。枕木にドッカと腰を下ろす。先に渡った四人が、おもしろそうに見ている。ちょっとフザケたくなってVサイン。うわっ、相澤さんがカメラを構えた、続いて残りの三人も。カメラの放列!
私と同じ方式ですぐうしろから渡ってきていた相澤夫人も、私を追い越せないので仕方なく一休み。私のうしろでニコニコしていた(ということが後刻相澤さんから写真をいただいて分かった)。
寸劇(?)ののち、また立ち上がってまどろっこしい横這いを繰り返し、やっとこさ対岸着地。やれやれ──
その先一〇〇メートルほどでヤブにぶつかってしまったが、何とかそれを掻き分けてゆく。そして分け終わったところが、林崎の方から来ている短い視線の跡との合流点だった。
あとは坦々とした草路、ついで轍路。山は遠ざかり、野は広い。気分ははろばろ、足は軽い──
といい気分になっていたら、またもやヤブがやって来、それを突破したら、ややっ、もう一つ橋があったっ!
あわてて地図を見たら、里根川の細い支流がそこにあったのだった。いやそれはいいが、今度は枕木がなく、桁だけだ!
しかし、前の橋の半分ぐらいの長さしかないということもあって、相澤夫妻と大出さんは、簡単に渡ってしまった。加奈子さんは中でも、途中でもっと細い横桁をつたって片方の桁からもう一つの桁にわたる、という芸当でみんなの目を見張らせながら、軽々と渡った。対して田中さんと私はビビる。あの細い桁の上で足を踏み外したら、またバランスを崩してよろめいたら、水の中にドボン! というイメージが頭にからみつくのだ。で、二人だけ失礼して、北方のクルマ道を迂回。
途中でまたヤブに悩まされたり、農家のおじさんとちょっと話をしたりして手間取り、橋の対岸にたどり着いたのは、たぶん二五分後ぐらい。みんなは呑気そうに腰を下ろして待っていた。
「お待たせしました!」
その先にはもう障害はなく、終始田園の中を行く草路・砂利道を順調に進んで、南北のクルマ道との交差点に到達。
クルマ道の向こうは大きなグラウンドになっていて、線路の跡方もなかったが、適当に歩いていったら、ふたたび線路跡の道があった。
がそれはごく短く、すぐ大津港駅の裏手が見えてきた。
参加者 田中、相澤夫妻、大出、石田、堀