〜堀 淳一紀行集〜 Vol,11

錆レール・炭鉱住宅群・巨大ホッパー
           重内・中郷炭鉱専用線跡探索行

堀 淳一 


 「おっ、レールだ!」
と田中さんが叫んだ。続いて中西さんも
 「あ、ありますね」
と、ニコニコ顔。
 見るとたしかに、道の左(南)側の舗装のない部分に、レールが二本、光っていた。よく晴れた明るい空の下なのに、うっかりしていると気がつかないほどうっすらと。
 そこにはA地点(地図3)、木皿川を渡る橋のすぐ東。
 地図1を見ると、その音には西明寺から来る線路と下堂地のほうから来る線路が、ここで相並んで川を渡り、渡ってから一本になっていたらしい、とわかる。だから橋が二本並んでいるのだと考えられる。
 南側の橋を渡った(西から東に)レールが、北側の橋を渡ったレールと合流するまでの間。そこにレールが今も残っているのだ。クルマには用のないその軌道敷なので、舗装もされていないのだ。
 一番北の広い(といっても一車線幅しかないが)橋は、鉄道橋とは別にかけられた道路橋であるに違いない。
 地図1には、重内から南下してきた線が、三本の橋の少し北で二本にわかれ、一本は磯原へ向かい、一本は川を斜めに渡って下堂地へ行く線と合流しているように描かれている。後者の痕跡がないか、と探って見たが、どこにもないようだった。
「おっ、レールがある!」A地点にて。
国土地理院発行 二万分五千分一地形図『磯原』(昭和四六年測量、平成一二年修正)を縮小。
2006/4/12掲載
文 写真   堀 淳一 <コンターサークルs主宰

 二本の橋が、ピッタリくっついて並んでいたが、左(南)側のものはひどく狭い上、欄干代わりの高い木柵にはさまれていて、小型車がようやく通れるか通れないぐらいの幅しかないから、これがかつての鉄道橋だと思われる。
 その狭い橋を渡ると、その南側にもう一本並行していたとおぼしき橋の橋台が残っているのに気がついた。
 なぜここに三本もの橋が並んで架かっていたのだろうか?
「旧鉄道橋に並んでいたもう一本の鉄道橋の橋台。東北東望。
地図3 
地図1 
 「重内と西明寺にも行ってみたいなぁ」
と中西さんが言う。田中さんもそうしたげだった。しかし、一一月は日が短い。それに今日の予定のコースを歩くだけで、一〇~一一キロはある。とてもそんな時間はない。
 「いやあ、ボクも行きたいのはヤマヤマだけど、そこまで行ってたら暗くなりますよ。またにしましょう」
と、あきらめていただく。
 そのこの日の予定とは、田畑、下堂地、石打場、西畑を通って南中郷駅まで、炭鉱専用線を歩こう、というのだった。
 そこで、この日の出発点に話をもどそう。
地図2 
国土地理院発行 二万分五千分一地形図『磯原』(昭和四六年測量)を縮小。
国土地理院発行 五万分一地形図『高原』(昭和二六年応急測量)を縮小。
 磯原駅で乗ったタクシーから降り立ったのは、B地点でだった。
 なぜ、B地点なのか?
 磯原駅からA付近までは、昔、炭鉱専用線が二本並んで走っていた。地図1では、そのうちの北側の線が田畑・磯原間の線(仮に「田畑線」と呼んでおく)、南側の線が重内から来る線(仮に「重内線」と呼ぶ)だった。
 が、地図2では、福田以西の重内線と福田以東の田畑線が消え、残存部分が福田でつなげられて「常磐炭鉱重内線」になっている。
 まず手始めにこれを歩こう、というのだったが、実は今の地図(地図3)によると、磯原の市街地ではそれは完全に消えており、町外れと福田の間ではただの道路になっている。道路部分は歩こうと思えば歩けるのだけれども、おもしろくはないだろう。それでB北西方の、道路は道路だが細い道で歩いて気分のよさそうなC以西の部分から歩くことにしたのだ。
 ところがCに行ってみると、地図上では消えている線路跡が、Cから福田あたりまで、まだ残っていることが分かったので、それをまず往復することに方針変更。
 CD間は、幅四メートルほどの、あざやかな鸚緑の草とオレンジ、蘇枋色、藁色などの倒れ伏す枯れ草とに覆われたベルトだった。Dからは掘割に入るが、そのはじめ二〇メートルほどは、セイタカアワダチ草の大群が密にはびこって、まるでセイタカアワダチのヤブ。
 ヤブをこぎ切ると、足元がズブズブでところどころ木道よろしく木の板がタテに敷かれている湿地ふうのベルトになるが、掘割が浅くなってゆくにしたがって短い草の生えた乾いた土に、そして砂利道となって、Eで終わった。嬉しくも、まさに廃線跡らしい廃線跡。その風情をもう一度味わいながら、Cにもどる。
 Cの西の線路跡は、一車線幅の坦々とした舗装路だった。まわりはのどかな田園。綿雲をぽわぽわと浮かべる空は澄んで高く、日ざしはポカポカとあたたかい。スカイブルーのかなたの空の下に紺青色に盛り上がる、十里上
(とりあげ)峠周辺の山並みを遠く望んで、気持ちよく歩いてゆくと、路は鳥居前の神社のところから轍の間に草のベルトを敷く、うらぶれた感じの土の路に変わり、木皿川に向かって掘割に入りながら下ると同時に、左へカーブしていった。
CD間にて西望。廃線跡
Dより西望。正面が十里上峠付近の山
 一〇〇メートル足らずで細い水路に突き当たる。ここに鉄道橋が架かっていたはずだが、今はなく、橋台らしいものも見当たらなかった。水路を越すと間もなく、西から北へカーブしてゆく途中のクルマ路(これが旧重内線の跡だ)と交差して、A地点に近づいてゆく。
 重内にあった炭砿は、明治三四年採炭開始の古い炭砿だが、大正十四年に不況のため磐城炭砿の重内砿となり、のち昭和十四年に重内炭砿として再独立、昭和四四(一九六九)年に閉山となった。また、西明寺にあったものは明治二七年に開砿、同四二年山口炭砿となったが、昭和三十一(一九五六)年に枯渇により閉山している。さらに地図1に示されているように田畑にも炭砿があったのだが、これの歴史は不詳である。しかし地図2では専用線の記号が田畑までのびているから、昭和四〇年代のはじめまでは生きていたらしい。最終期には重内炭砿の一部だったのかもしれない。
 さて、三本橋から先では、田畑線の跡は背の高い築堤になっていた。幸い築堤沿いに小径が続いていたので、かなりの草ヤブになっている築堤の上は敬遠して、小径のほうを歩いてゆく。空に浮かぶ白とスカイグレイの綿雲が、いよいよいい。築堤に業生するススキの穂の逆光にきらめくペールベージュ(白に近い淡いベージュ)もいい。路の両側のコバルトグリーンや卵色に光る草もよく、足が弾む。
 田畑の手前の根本の集落に向かって次第に低くなってゆく築堤を、集落の北約二〇〇メートルのところで農道が断ち切って横断していた。が、その路面からの築堤上面の高さは、人がくぐるのにはあまりにも低いから、この断ち切りは廃線後につくられたもので、それ以前には人は築堤をまたいで越していたのに違いない。
 農道の南側に低い橋台があったが、それは道の南側に沿って流れていた用水をまたいでいた短い橋のそれだ、ということがすぐ分かった。これと対をなす橋台が、さらにその南にあったから。
 田畑集落の北端で、築堤は地面に降りて、短い草に覆われた土のベルトに変わった。
 「あ、またレール!」
 「え、どこに?」
 「すぐそこ、草の中ですよ」
見ると、草に埋もれかかって、二本のレールがうっすらと光っていた。そして、そのレールの先で、いつの間にか線路跡の右(北西)側に寄り沿ってきていた道路が、線路跡を横切って、その左側(南東側)に移った。
 道路を越すと線路跡はいったん生い茂る枯れ草に覆われたが、すぐに広い空き地に変わった。
 空き地には四本のレールが、跡切れとぎれに土の上に出て並んでいた。田畑の炭砿産の石炭の積み込み場だったのだろう。
 レールは二本にもどってからもなお、草っ原や花畑の中を、東西の道路にぶつかる手前まで続く。ここが田畑線の終わりだ。
 しかし地図1では、鉄道の記号がなお南西に向かって続いて、石打場まで行ってから中郷炭砿専用線に接続しており、地図3でもその跡がかなり道路として残っている。これらを引き続いて歩こうというのが、この日の意図だった。
 東西の道を過ぎると、線路跡の道は、ゆるい坂を上っていった。ちょうど通りがかったおばさんに聞いてみると、地図2では消えている田畑・石打場間のレールを走っていたのは列車ではなくて、巻き上げ式のトロッコだったのだそうだ。そうか、トロッコだったのか───
 地図1にはこの先の上石岡一円に炭砿の記号が一個と炭砿住宅らしい家屋群が三個描かれていて(地図3では嘉蔵平、下堂地、追畑の三ヶ所)、トロッコ線の近くにいくつかの小炭鉱があったことを示している。これらから掘り出された石炭が、トロッコで運ばれていたのだ。おばさんの話では中郷専用線のほうに運ばれていたということだったが、田畑からずっとレールが続いていたところを見ると、重内専用線のほうにも運ばれていた、または運ばれていたことがあったと思われる。もっとも小炭鉱群の歴史・閉山時期が不詳なので、どういう運ばれ方をしていたかについての詳細は分からない。
 さて、登り始めてしばらくすると、路は落ち葉の散り敷く黒っぽい土の路となって(黒いのは多分、トロッコからこぼれた石炭屑のせいだろう)、林をぬけていった。そしてやがて、峠を越える。
 しかし、地図1に描かれているトンネルはなかった。
 峠のところでは路がトンネルと避けて、線路跡から少しずらしてつくられたのだろうか? それともトンネルは崩して、掘割にしてしまったのだろうか?
 前者ならば路のすぐ脇にトンネルが残っているはずだ、と考えてちょっと林の中に入ってみたけれども、それらしいものは見当たらなかった。といって、トンネルは崩されてしまったのだ、ともきめられない。すっかり森に覆われてしまっているためにみつけられなかったのかもしれないし、自然に崩壊してしまったのかもしれない。結局、結論は下せなかった。
四本残るレール
田畑南西の登り坂が峠にかかる
 トンネルの手前から東側に旧道が分岐していた。かなりヤブ化していたが、草をかきわけてゆくと、古いトンネルの北口に突き当たった。板で頑丈にふさがれた、コンクリートアーチのトンネル。
 だが、これはかつてトロッコがくぐっていたトンネルではない。これもさっきのおじさんに聞いたことだが、それは旧トンネルのすぐ東に並んでいるはずだった。
 さらにひどくなったヤブを分けていったら、その通り、あった! トロッコ軌道のトンネルが!
 それは金網でふさがれ、入り口のすぐ外にトンネルの天井近くまでうず高くつもった、落葉、枯草、ゴミクズに、今にも埋まってしまいそうな姿で!
 「おう、赤煉瓦のアーチトンネルだ!」
 「トロッコのトンネルにしてはえらく立派ですねぇ」
 「ええ、今見た旧トンネルよりこっちのほうが幅も広そうですよ」
 「うーん、そうですねぇ」
 「そうか、多分軌道は道路の上に敷かれていたんじゃないですか。トンネルの中ではそれでは危険だから道路と軌道が別々になってて、その分だけトンネルが広いんじゃないでしょうか?」
 「あ、そうかもしれませんね」
 トンネル(もちろん現在クルマが走っているトンネル)をくぐってからまたヤブを探ると、旧トンネルの南口と旧道(北口側の旧道よりかなり長い)があったが、これの東側のヤブをちょっと入ってみたら、水びたしになっている深い掘割のきわに出た。この掘割がトロッコの走っていた道の跡に違いない。

 が、水びたしの上、掘割の底に降りる崖が急で、すこぶる危なっかしい。敬遠して、降りてトロッコトンネルの南口を見にゆくのはあきらめる。
 そんな私を尻目に、中西さんと田中さんは、勇敢にも降りていった。
 後日写真を見せてもらったら、南口もまた天井近くまで水びたしになっているのであった。
 あとは坦々とのびる舗装道路。ただ、トンネルの南方三〇〇メートルほどのところで東側の崖を見上げると、ジャンプ台のような構築物の廃墟があった。何だろう?
 地図2には、ちょうどそのあたりに変電所の記号が描かれており、高圧線がそこで二本に分岐しているから、その跡に違いない。なぜジャンプ台のような形をしているのかは分からないが。
 道路はその先で直角に折れて、東へ向かう。そしてすぐ、巨大なホッパーの廃墟が道の北側に屹立しいた。またホッパーのすぐ東からは、丘の中腹に立ち並ぶコンクリートの廃墟群が、北に望まれた。これらはホッパーとともに地図2に描かれている、中郷炭砿の遺跡だ。
 この炭砿は明治四二年頃、常磐炭砿中郷砿として開砿し、昭和四六(一九七一)年に閉山するまで、常磐炭砿の中核的な存在であった(ただしその間坑口はあちこち移動したことが、地図1と地図2から窺われる)。
 坑口跡や炭砿住宅(もしあれば)も見てまわりたいと思ったが、何しろ時間不足。そのまま線路跡の道路を歩き続ける(変電所跡・ホッパー間では廃線跡は道路とは別だが、ホッパー以東では道路がほぼそのまま廃線跡だ)。
 G地点から県道は南にそれ、狭い砂利道が廃線跡をひきついでそのまままっすぐのびている。そして途中でやや荒れた轍路に変わってから、塩田川にぶつかった。
 しかし橋は橋台もろとも消えていたので、県道を迂回してその対岸に出たが、轍路の延長上の線路跡は小工場の敷地に取りこまれてしまっており、敷地の北側を迂回して、ふたたび線路跡に出る。それもまた轍路で、約五〇〇メートル一直線に続いてまたも川。もう一度県道を迂回して、線路跡との交差点Hに出る。
 Jの北西側の線路跡は、住宅地の裏の暗い路地として残っていたが、一〇〇メートルぐらいしか続かず、あとはヤブ。南西側のそれはさっきと同じような轍路だった。すぐまた川。しかし今度は橋があった。ただし橋の上はススキの穂の乱舞するヤブで、それをこいで渡った先もしばらくヤブ路。K地点からやっと、自転車道のような細い舗装路になり、一キロあまり坦々とまっすぐ続いた。
 だが、南中郷駅構内に進入してゆくカーブにかかると、大きな水たまりのある荒れた草路となって、そのままガランと何もない構内へ。
 もう夕暮れがせまっていた。

 参加者  中西、田中、堀

トロッコ軌道のトンネル
 峠を下って今も残る炭砿住宅街にさしかかろうとするところで、路は跡切れ、先はすっかりヤブ化してしまっていた。で山腹を降り、畔路を通って県道に出、その先で炭砿街にちょっと入ってみる。
 その一軒の庭先にいたおじさんに、
 「こんにちは。ここ、炭砿の住宅だったんですね?」
と中西さんが尋ねた。
 「うん、そうだよ。炭砿はもう全部なくなってしまって、今残っているのはこのあたりだけなんだ。でもオレはここ、住み心地がいいんで、今も住んでるんだ。え、トロッコ? ああ、トロッコはあの家のうしろを走ってたんだ」
とおじさんは、そこにも六戸ばかりの炭住が並んでいる、北東のほうを指した。
 炭住はすべて木造だが、ガッシリしたつくりのようだし、丘の中腹の南向きで日当たりがいいので、住み心地上々なのだろう。
 県道から竹ノ内前の住宅街をぬけてゆく曲がりくねった道に入って、下堂地の北端に出る(F)。ここからはふたたび、道路が線路跡だ。
 大北川を渡ると登り坂になり、間もなくトンネルに入る。
変電所の遺跡(?)
ホッパー廃墟
丘の中腹の炭砿施設廃墟
橋の上のヤブを分けてゆく