旧道エッセイ・プラス Vol,12

塩田集落を歩く

根布谷 禎一 

はじめに

 毎日通勤で利用しているJR京葉線。普段なにげなく車窓から眺めている景色が、同じ東京と千葉を結ぶ総武線の車窓からの景色とはどうも一線を画しているように思われてならないのである。街並みがとぎれることのなく続く総武線に対して、京葉線沿線は幕張新都心、浦安市街、それと東京ディズニーリゾートを除けば、まだ開発が進んでいない空き地が目立つほか、団地、港湾施設、高速道路等々ばかりである。そんな京葉線から眺める景色の中でも、南船橋から新浦安間は特に何とも殺風景に感じるのは私だけだろうか。
 本当に味気ないところなのだろうか。そんな疑問を抱きつつ、8月のうだるような暑さの日に、一人のんびりと船橋から市川の行徳に向かって時間の許す限り歩くことにした。

国土地理院発行 2万5千分1地形図『船橋』の当該部分を元に編集したものです。上は平成、中段は昭和、下は大正年代のもの。

街道の拠点「船橋」

 JR稲毛海岸駅から京葉線に乗って南船橋駅で武蔵野線に乗り換え、さらに西船橋駅で総武線に乗り換えて船橋駅を降りたのは11:00を少し過ぎた頃であった。
 船橋は不思議な街である。ボクたちの年代だと「船橋」というと、かつて土曜日のゴールデンタイムに放送していた「8時だよ全員集合!」の舞台として使われていた船橋ヘルスセンターをつい思い出してしまう。市民みんなが当時としては派手なアロハシャツを着て歩く街、そんなイメージを想像させる街であった。また、JR船橋駅を挟んで仲良く北に西武百貨店、南に東武百貨店があるのは有名で話である。人口は55万人を抱え、千葉県内で一日の乗降客が千葉駅を押さえ最も多いのが船橋駅である。

 休日のため乗降客でごったがえす駅から、駅前通り真っ直ぐに進み、高架工事真最中の京成線を渡りしばらく進むと、本町通りとの交差点に着いた。この交差点を西に曲がって進むと、それまでの街の雑踏からはうってかわって静かな雰囲気になっていく。しかし、今日は暑い日である。(写真1)
 実は、今日歩く道は、船橋から行徳にかけての旧道「行徳道」である。江戸時代、船橋は、江戸から成田に向かう「成田道」を中心に「行徳道」、「上総道」などの交通路が交差する宿場町として発達した街であった。
(写真2)
 この旧道は、かの有名な「水準点の法則」により、以前から旧道であることを確信しており、千葉在住の間に是非歩きたかった旧道のひとつであった。

左-写真 1    右-写真 2

感動のみちしるべと几号水準点

この道をそのまま進むと、JR総武線を越える陸橋に着いた。実はこの道の南側のある念仏寺にお目当ての道標が建っているのである。正面に「右 いち川みち 左 行とくみち」とあり、左右にそれぞれ「是より行とく」「是よりいち川」とある。これは元禄7年(1694)の造立で、船橋市内で最も古い道標ということである。つまり、これは町の境界表ではなく、今で言うところで道路標識である。ここが、西船橋から本八幡を通って市川へ向かう街道と、この先進む二俣、原木を通って行徳へ向かう街道との三叉路であったことを示している。(写真3)
 再び国道14号線に戻ると、行徳道は、今渡った総武線の南側にあることになっているが、ここでちょっと寄り道をして、今巷で噂の「几号水準点」を拝みに行くことにした。

 几号水準点とは、明治の初め、内務省が設置した水準点のことで、明治 8年に東京・塩釜間の水準測量が開始され翌年には終了したが、その測量の際、お雇い英人マクヴインなどの指導で実施されたことからか、水準点にはイギリスで使用されている「不」(の字に似ている)記号を構造物に刻んだものが使用されたとのことである。
 この時、内務省で設置する水準点には、この記号を構造物に彫刻するなどの方法によることが通知されたことと、その後内務省の測量技術者が各地で類似の測量を実施したことから、「不」記号の水準点は参謀本部が水準点標石を導入するまでの間、各地の測量で設置・使用されと言われている。
 几号水準点の設置にあたっては、上記の規格が示されたが、実際には灯籠、鳥居(華表)、道しるべ、橋台などの永年保存される構造物に刻まれたものが多かったので、明治の技術者の目論見どおり比較的そのまま現存している    ということである。(この几号水準点の存在に関しては、会員の中西さんに今年の夏にお会いしたときに教えてくださったもので、感謝申し上げます。)

 この几号水準点が、千葉県内では唯一、船橋市の龍神社の境内にあるという。早速、探してみることにした。灯龍やそれらしきものを探すと、あるある鳥居のすぐそばに。確かに側面に「不」の字が刻まれている。それ以外は風化していて判読不能であるが、ついに拝見、久々の感動モノである。こんな感激は念願の濃昼峠に到達した時以来ではならろうか。そこで、お神酒とまではいかなかったが、感動を胸に、再び行徳道に戻ることにした。(写真4)

 船橋公会堂からは、ようやくお楽しみの旧道の趣が漂い始める。もちろん完全舗装であるが、これまでの雑踏から離れて、車も少なめ、のんびりと自分のペースであるくことができる。(写真5・6)

上-写真 3    下-写真 
写真 5      写真 6

市川塩浜とはこれいかに

 ところで、ここから行徳にかけての一体は、かつて行徳海岸と呼ばれ、江戸時代には、製塩の行われた所である。当時の徳川家康は行徳の塩田を見て「塩は軍用第一の品、領内の一番の宝である。」として莫大な金子を与え、塩をもって年々返済させていたということである。この行徳の製塩は経済的にも瀬戸内製塩よりも劣っていたにもかかわらず、長く存続したのはこうした幕府からの保護が加えられていたからである。高谷の集落は東京湾の潮流によって形成された砂丘上に発達した集落で、日本橋からの成田参詣路として使われていたもので、原木、田尻等もこの参詣路によって発達したということである。
 このため、JR京葉線には「市川塩浜」という駅名であることがわかって、大きくうなずいてしまった。

二俣、田尻、原木の集落

 二俣の集落を過ぎ、京葉道路の原木のインターチェンジを越えていくとそこから先は、これまでにもましてのんびりとした風景が続く。ここが、東京と千葉の間にあるなんて目を疑うほどである。町並みもレトロな酒屋やクリーニング屋など、昭和の時代にタイムスリップしたような感じ。いかにも行徳街道によりできた町であるということを物語っているようである。本当に、あと10キロメートルで東京なの?って感じである。しかし、東京〜千葉間の幹線国道14号線から遠く離れているため、何ともノスタルジックな街道として取り残されたのはありがたいものである。何せ、車も少なく、それまでの車の騒音が全く嘘のように、静まりかえっているのである。(写真7)
 そんな歴史を感じさせる町並みを歩いていると、旧道歩きの醍醐味を満喫していることに妙にうれしくなってしまうのが不思議である。
 暑さでへとへとになって地下鉄東西線の原木中山駅に到着したのはもう午後3時を回っていた。
(写真8)

写真 7

 塩田集落には、塩田の名残を見ることはできなかったが、スピード重視の今の世の中で、江戸時代ののんびりとした雰囲気を感じることができたのは大きな収穫であった。京葉線の車窓からは殺風景に見えていた風景も、実際に歩いて見ると、都心に位置しながら実は江戸時代の風情をしっかりと残している、とても心休まる風情のある風景であった。

 今日は、これから北千住に行って煮込み豆腐で有名な居酒屋で友人と一杯やることになっている。今日の大満足の旅の話で盛り上がることは間違いないはず。
写真 8
2006/1/1掲載 
文 写真   根布谷 禎一 <北海道旧道保存会>