旧道フォトグラフス Vol,7

張碓第五トンネル (小樽市 張碓海岸)

      写真 文 ・ 久保 ヒデキ


 北海道の鉄道の始まりは明治13年にまでさかのぼる。幌内鉄道の手宮から札幌に至る35.9km。そのほとんどの区間は、現在もひっきりなしに電車が往来する重要幹線である。
 そんな歴史などまったく興味を持たなかった幼少時代、夏の海水浴、冬のスキーと行事あるごとに客車に揺られながら、めまぐるしく景色が変るこの区間が好きだった。銭函を過ぎると足元まで日本海が迫り、反対側は手が届きそうなまでに山が迫る。そんな中、張碓海岸に恵比寿島が見えてくると、いつも気になるところがあった。
 それは、島の正面、断崖の際に口を開けた”洞窟”だった。ほんの10数mぐらい。これが、かつての幌内鉄道のものであったことを知ったのは、かなり後になってからのことだ。トンネルを間近に見てみると、一箇所として平らなところがない、緑白色の素彫りの岩壁が続く。トンネルというよりは”隧道”と呼ぶ方がぴったりくる。思いのほか天井が低く今にも崩れ落ちそうな圧迫感がある。実際、銭函側の入り口部分はかなりの面積で剥離の痕が見える。短いトンネルとはいえ、中は薄暗く、なんとなくじめっとした感じ。小樽交通記念館で見たピカピカの『しづか号』のイメージをだぶらせるが、この粗雑なトンネルの中をくぐり抜ける雄姿を想像するのは、とうとうかなわなかった。

 幌内鉄道には、手宮〜札幌間に合計5本のトンネルが掘られたたことになっているが、正確にはこの『張碓第五トンネル』は鉄道建設に先立って、銭函〜張碓間の馬車道として明治12年12月に掘られたものである。翌13年1月の『若竹町第三トンネル』掘削が、幌内鉄道建設の始まりだった。そういう意味では、この『張碓第五トンネル』も”旧道”だったわけだ。その後幌内鉄道は、北海道炭鉱鉄道を経て明治の終わりごろに国有化されると、複線化のためにトンネルのすぐ海側に新線が敷かれる。再び、『張碓第五トンネル』は人道トンネルとなったが、もちろんどこかへ通じる道があるわけではなく、時折、付近の漁師が利用するだけだっただろう。

 消滅していった他のトンネルと違い、長いこと原形を留めてきたこのトンネルは、昭和30年には隣接する張碓川鉄橋とともに歴史的記念物として、小樽市から永久保存の指定を受けている。しかし残念なのは、現在、鉄道事故防止を理由に現場一帯に立ち入り禁止措置がとられていること。恵比寿島自体、天然記念物のアオバト生息地として知られ、当然、観光地として扱われてもおかしくはないと思うのだが。何らかの安全防止策を施して遊歩道化し、これらの産業遺構をより多くの人に知ってもらうような手立てはないものだろうか。